「ずるい」を超える
- #丸山啓史
クラスのなかで特定の子どもについて「特別支援」なり「合理的配慮」なりが行われる場合、あるいはそれに近いことが行われる場合、まわりの子どもたちは、そのことをどう見ているでしょうか。
何となくであれ、まわりの子どもたちが理解を示すことは多いようです。たとえば宿題をしてくるのが難しい子がいたとして、先生が放課後に宿題に付き合ったり、その子の宿題の内容を簡単なものにしていたりしても、「ずるい」という話にはならなかったりします。
けれども、子どもたちのなかから「ずるい」という声が出てくる可能性が全然ないわけではありません。また、そういう声が出てくる可能性を教師や保護者が心配する、ということもあるでしょう。
ここでは、「ずるい」について考えてみましょう。
そもそも、「ずるい」というのは、どういうことでしょう。どういうときに「ずるい」という言葉が出てくるでしょうか。「自分も焼芋をもっと食べたいのに、あの子だけが“おかわり”をするのは、ずるい」「自分は苦労して宿題をしているのに、ある子だけ宿題を減らしてもらっていて、ずるい」といったように、「自分も○○したいのに…」「自分はガマンしてるのに…」という思いが、「ずるい」に結びついている気がします。
「ずるい」という言葉の背景には、それを口にする人の満たされなさがありそうです。みんなが気持ちよく過ごせるようなら、「ずるい」という言葉は出てきにくいのかもしれません。
「ずるい」を超えていく道を考えてみましょう。
一つには、「望むなら、あなたもどうぞ」という対応が考えられます。「宿題が大きな負担になっているなら、言ってくれたらいいからね」「必要なら、計算のために電卓を使ってもかまわないよ」といった対応を、特定の子どもだけでなく、みんなに開かれたものにするということです。
もう一つは、漠然とした話になりますが、みんなが心地よく過ごせる環境を追求することです。もし「ずるい」という声が出るなら、その声の背景にあるものを考えてみたいものです。クラス全体が“いい雰囲気”になっていくことで、障害のある子どもも居やすいクラスができていきます。
筆者紹介
丸山啓史 京都教育大学 発達障害学科 准教授
「まあええやん」の精神を大切にしたいです。おおらかな世の中を願っています。
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